「あちら側」の人

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 子どもの頃、親に海水浴に連れてこられると、いつもそこには「あちら側」の人がいた。

 小学生の僕と同じくらいの年齢のよく陽に灼けた少年が、野球帽をかぶって、すこし大きめのママチャリにまたがって、つまらなそうな顔をしながら、海水浴客で賑わうビーチを眺めていた。

 お日様が沈む前に東京の家に帰らなければならない「こちら側」の僕は、いつでも自分の好きなときに海に来られる「あちら側」の彼が、うらやましくてしょうがなかった。

 

 十年とちょっと前、僕も家族を連れて「あちら側」の人になった。

 夏には自転車で海へ出向いて、あの頃見かけた少年のように、はしゃぐ海水浴客たちを眺めたりしたけど、実際に海辺の町に住んでみると、あの頃思っていたほどには、海は眩しく見えなかった。

 毎日見ることのできる海は、日常に堕落する。大好きな海も、たまにしか触れられないから輝いていたのだ。少年がつまらなそうな顔で海を眺めたあと、大きめのママチャリで寂しそうに帰って行く後ろ姿を思い出した。

 けれど時おり、やっぱり海の近くに住んでいてよかったと強く思う瞬間がある。

 たとえば雨上がりの朝。よそから海へ遊びに来る人というのは、よほどの変わり者でない限りはお天気のいい日を選ぶだろうから、このしっとりとほどよく濡れた砂の感触や、海鳥以外は誰もいない波間や、少しずつ雲が晴れて世界が明るくなっていく様相を見ることはできないはずだ。

 そう思うと、やっぱり「あちら側」__今は「こちら側」だけれど__の人になってよかったなあ、なんて思うのである。

 時々、都会の暮らしが懐かしく思えることもある。帰る「あちら側」がある人はいいなあ、なんて……、僕らは永遠に隣の青い芝をうらやむのかもしれない。

 

 

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