「あちら側」の人

f:id:riuaoyama:20170427085108j:plain

 子どもの頃、親に海水浴に連れてこられると、いつもそこには「あちら側」の人がいた。

 小学生の僕と同じくらいの年齢のよく陽に灼けた少年が、野球帽をかぶって、すこし大きめのママチャリにまたがって、つまらなそうな顔をしながら、海水浴客で賑わうビーチを眺めていた。

 お日様が沈む前に東京の家に帰らなければならない「こちら側」の僕は、いつでも自分の好きなときに海に来られる「あちら側」の彼が、うらやましくてしょうがなかった。

 

 十年とちょっと前、僕も家族を連れて「あちら側」の人になった。

 夏には自転車で海へ出向いて、あの頃見かけた少年のように、はしゃぐ海水浴客たちを眺めたりしたけど、実際に海辺の町に住んでみると、あの頃思っていたほどには、海は眩しく見えなかった。

 毎日見ることのできる海は、日常に堕落する。大好きな海も、たまにしか触れられないから輝いていたのだ。少年がつまらなそうな顔で海を眺めたあと、大きめのママチャリで寂しそうに帰って行く後ろ姿を思い出した。

 けれど時おり、やっぱり海の近くに住んでいてよかったと強く思う瞬間がある。

 たとえば雨上がりの朝。よそから海へ遊びに来る人というのは、よほどの変わり者でない限りはお天気のいい日を選ぶだろうから、このしっとりとほどよく濡れた砂の感触や、海鳥以外は誰もいない波間や、少しずつ雲が晴れて世界が明るくなっていく様相を見ることはできないはずだ。

 そう思うと、やっぱり「あちら側」__今は「こちら側」だけれど__の人になってよかったなあ、なんて思うのである。

 時々、都会の暮らしが懐かしく思えることもある。帰る「あちら側」がある人はいいなあ、なんて……、僕らは永遠に隣の青い芝をうらやむのかもしれない。

 

 

広告を非表示にする

孤独の場所

f:id:riuaoyama:20170426074052j:plain

 引っ越しをして、家が倍くらいの大きさになった。

 快適な住環境を手に入れたのになんだか落ちつかないのは、まだ新しい家に慣れていないせいかと思ったが、どうやらそうではなくて、”独りの場所” がないのだ、ということに気がついた。

 朝海辺をさんぽすると、人生のあらゆる物事が俯瞰で眺められる。昨日の晩まで、ついさっきまでもやもやしていた悩みや課題が、生きていく流れの中で起こる “あたりまえ” の出来事だと腑に落ちて、心が楽になる。

 ところが、そうやって海風を浴びながら鷹の視点で人生と今日一日を眺めても、家に戻った途端、アリの視点に戻ってしまう。考えることはいくらでもある。片づかない家のこと、病みあがりの家人のこと、環境の変化に落ちつかない子どものこと、今日やらなければいけないこと、やりたくないこと……ブラブラブラ。

 かつて人生相談をやっているときに常々感じたものだが、落ちつかない、毎日が生きづらいという人はたいてい、“独りの時間” を用意できていない。独りでいても、誰かのこと、誰かに対する自分のこと、誰かから見た自分のことで頭がいっぱいで、本当の孤独を獲得していない。

 作家・花村萬月は「押しつけられた孤独は辛いものですが、自ら選択した孤独は格別です」と言う。

 人生のたいていのことは、落ちついていればどうにかなる。うまくいかない人は例外なく、慌てて、混乱しているだけだ。落ちつくとは、“独りになる” ということだ。

書斎の片づけがあらかた落ちついて、家の中に “孤独の場所” を用意できたので、ようやくすこし落ちつけるようになってきた。落ちついてみると、階下から響く子どもたちの笑い声も、なんだか心地よく感じるものだ。

 

 

 

広告を非表示にする

僕らはとっくに限りなく自由だ、と。

f:id:riuaoyama:20170425090045j:plain

 家から歩いて三分で海に出る。

 その日の気分で、さんぽ道を決める。

 西の砂丘に咲く花が眩しければそちらへ向かい、東の空に登ったお日様から天使のはしごが降りていればそこを目指す。さらさらと流れる海風と心地よい波音を浴びていると、僕は、限りなく自由だ、と思う。そしてそれは理屈じゃないな、とも。

 理屈じゃないけど、理屈を考えてみる。

 人はみな誰も、とっくに自由なのだ。

 お金がないからイヤな仕事をたくさんしないといけない自分は不自由だ、という人がいるけど、その選択だって自分の自由だ。好きな仕事をして貧しいながらもしあわせになっている人はごまんといる。

 自由でない人は、お金とか環境とかじゃなくて、心が自由でないだけだ。

 僕らは生まれてからずっと、たくさんのルールやモラルに縛られて生きるうちに、心の自由を失う。親や学校や社会が ”あなたのため” という真綿のようにやさしい言葉でがんじがらめにして、無数にある生きる選択の幅を狭めてしまう。

 イヤなことをガマンして歯を食いしばって ”人並みのいい生活” をするのも自由。

 他人の目なんて気にしないで好きなように生きるのも自由。

 とっくに自由なんだって、”気づく” だけ。

 

波の音しか聞こえない。

f:id:riuaoyama:20170424095632j:plain

 僕の朝は暗い。

 朝が弱いとか苦手だとかいうんじゃなくて、なにやら漠然とした不安に包まれてどんよりとしている朝が多いのだ。

 そういう朝は(そういう朝じゃなくてもだけど)、歩いて海へ出る。海っていうのは毎朝眺めても飽きないくらいに、いつも違った様相を見せる。なにも晴れわたった青空を反射するまぶしい海だけが美しいわけじゃない。世界中が雲に包まれたような白い海も、無数の雨粒を弾く黒い海も、それはそれで美しく、ときに僕は感嘆の声を漏らす。

 砂浜をトボトボと歩いていると、次第に波の音しか聞こえなくなる。目の前の小さな現実から、長く大きな人生へ、自分の視野が広く高くなるのを感じる。昨日までの悩みや明日待ち受ける問題もすべて、世の中で起きることは全部、”あたりまえ” のことなんだ、と思い出す。毎朝、思い出す。

 そう思えないときは、心も身体も疲れてる。僕は諦めて家に戻り、今日できることをやるだけだ。